10月の出来事 〜 チェコ (プラハとチェスキークルムロフ) を巡る 〜

さて、今回は10月の出来事を書かせて頂きます。

2014年10月の半ばから、ハンブルクでは秋休みがあったので、初めてチェコを訪れました。
ハンブルク空港から空の旅を楽しむ事約1時間半、あっという間にプラハ空港に到着しました。ヨーロッパは、隣の国に本当に簡単に行ける事を改めて実感。
プラハは生憎の曇りで、ハンブルクに比べてかなり気温が低かったので、慣れるまでに少し時間を要しました。

ハンブルク空港で、プラハまでの飛行機。


機内からの景色。

プラハの空港に着くなり飛び込んで来たのは、空港内の至る所にある道しるべのインフォメーション表示にあったハングル文字!日本語もあればいいのに〜と思いましたが、数年前から韓国とチェコが提携して直行便が出ているとの事で、韓国からの観光客がぐっと増えたそうです。お隣の身近な国とは言え、全くハングル文字は読めないのですが、ドイツ語も書かれてあって安心しました。それにしてもチェコ語といったらもう。。。表記から発音までチンプンカンプンです。
友人とガイドブックにあった挨拶と “ ありがとう ” を覚えようとしましたが、カタカナで発音が表記してあるままに発音しても全く現地の人には通じず。耳をすまして現地の方の喋っているのを聞いて3日目くらいで、やっと発音できるようになりました。(たった2つの言葉なのになんて遅い習得でしょうか・・・。)

気心のしれた友人との旅行でしたが、皆チェコは初めてだったので、街を移動するにもガイドブックの地図が手放せず、道で立ち止まって迷っていると、至る所で声をかけて助けてくれる方々がいて、本当に親切な国でした。

初日 − プラハ。
2日目 – チェスキークルムロフ
3日目 – プラハ
最終日 – 帰独

プラハの街は街全体が世界遺産になっている事もあって、どこをとっても絵になる風景は、ずっと見ていたくなる風景でした。有名なカレル橋はもの凄い人で溢れていましたが、橋の両側に経つ聖人達の像がとても印象的で、その中には日本にゆかりのあるフランシスコ・ザビエルの像もありました。

ヴルタヴァ川にかかるプラハ最古の石橋を渡ってプラハ城に向かいました。
両脇には30体の聖人の像が並んでいました。

カレル橋から。左奥に見えるのがプラハ城。


カレル橋に立つ聖フランシスコ・ザビエルの像。
左下で支えるのは日本人(東洋人?) の様だとのこと。

プラハのシンボルでもあるプラハ城までの道のりは、どこまでも続く石畳の道を歩いて、更に果てしなく続く階段を登らなければならなかったのですが、訳あって一日に何往復もする結果に。この数日で一気に筋肉がついたのは間違いありません。
プラハ城の中には、聖ヴィート大聖堂、旧王宮、そして小説家カフカの家がある黄金小路があり、1日ではとても周りきる事ができない程、見所が沢山ありました。

カレル橋を渡り終えてひたすら歩きました。

どこからこの石を持って来るのだろう、、、
と思うくらいにいつまでも石畳の道。

石畳のうえ、更に続く坂道。
ヒールでは絶対に歩けません。きっと石畳の間にかかとがハマる事間違いなしです。

登る階段の途中からのプラハの街並。
ここからでも十分に良い景色でした。

プラハ城正門。
悪い人間はこの門を通る時に、左右上方の「戦う巨人たち」に捕らえられてしまうとか。
くぐる前はドキドキしました。日頃から良い行いをしなければ・・・笑

門の上にはマリア・テレジアの飾り文字がありました。

正門の脇に立つ衛兵。
この兵服は、モーツァルトが描かれた映画《アマデウス》の監督のデザインだそうです。
彼の身体で動きが確認できるところはカメラを構える観光客を追う目だけでした。

聖ヴィート大聖堂。プラハを代表するゴシック建築の教会。
聖堂の中にはアールヌーヴォを代表するチェコの画家ムシャのステンドグラスがありました。
聖ヴィート大聖堂の正面のドア。
この一枚にこの大聖堂の歴史が全て描かれているそうです。



プラハ城敷地内の黄金小路にある青いカフカの家。
(とはいえ、常に住んでいた訳ではなく、1週間に数日(恐らく週末?))だけ住んでいたそうです。
とても小さいお家でした。
カフカの家の内部は今は売店になっていました。
黄金小路の家々の2階部分の通路には、鎧がずらり。
当時この黄金小路は鍛冶場がここに集まっていたそうです。
でもここの鎧の広間は異様な空気が漂っていて、早くここから出たい気持ちで一杯でした。
早歩きで通り過ぎたのは言うまでもありません。


2日目は電車で3時間程移動し、南部に位置するチェスキー・クルムロフという街に日帰りで行って来ました。ただし、行きの電車は工事の関係なのかで、表示されていた目的地まで行かず、乗客は皆おろされて、途中からバス移動。初めての場所で言葉も通じずに不安でしたが、ここでも親切な現地の方々が助けてくれて、無事に目的地まで辿り着けました。チェスキー・クルムロフ、街全体が1992年にユネスコの世界遺産に登録されて、世界でも有数の美しい街、とガイドブックに書いてあったので、楽しみにして行きましたが、まさにその通り、絵本に出てきそうな、美しく、全てが可愛らしく、素敵な街でした。出来る事ならもう一度訪れたいくらいです。

チェスキークルムロフの駅

駅にあったインフォメーションの絵。
街全体は上から見るとこんな感じの街です。

街の入り口の橋と門

街の入り口の橋と門からの景色

郵便局。このマークはドイツも同じです。

街の雑貨屋さん。

このモグラのキャラクターはチェコ出身です。


チェスキークルムロフ城。
ボヘミヤ地方でプラハ城に次ぐ13世紀に建てられた大きなお城です。

チェスキークルムロフ城の塔からの景色。

城の堀には熊が飼われていました。

景色と一緒に。

どこを切り取っても絵になる景色に惚れ惚れ。

チェスキークルムロフのお土産屋さん。
とても親切な店員のおばさんが、そっとおまけをくれました。



可愛いものだらけで、全て欲しくなってしまうほど。。。
あまりにも可愛過ぎて買いたい気持ちを我慢するのは大変でした。



可愛い小物達。




2日目は夜にはプラハに戻り、3日目は朝から音楽家を巡る旅でした。
まず訪れたのは、チェコの作曲家A.ドヴォルザークの家。
現在は博物館になっていました。当時のドヴォルザークの生活が感じられる様なものも沢山展示してあり、ここから有名な作品が生み出されたのだと思うと、とても感激しました。

ドヴォルザーク博物館

左から順にドヴォルザーク若かりし頃からの写真

当時からある机


この顔が一番有名でしょうか?


ドヴォルザークが使っていた眼鏡

当時の部屋の様子

ドヴォルザークの使っていた時計

ドヴォルザークの愛用したビオラ。
ヴァイオリンではない所が彼らしいと感じました。



ドヴォルザークの妻

ドヴォルザークと娘。
大作曲家も、父親の顔になってますね。

ドヴォルザーク博物館の前で。

ドヴォルザーク博物館の次に向かったのは、W.A.モーツァルトがプラハを訪れる際によく滞在していた館、ベルトラムカ(Bertramka)へ。
プラハはモーツァルトに非常にゆかりのある街です。W.A.モーツァルトの代表オペラと言っても過言ではない『ドン・ジョヴァンニ』の序曲がここで作曲されました。
モーツァルトがここで滞在し作曲していた、と思いを馳せるだけで、少しモーツァルトと近づけた様な気が、ほんの少しだけしました。(錯覚とも言いますが。笑) 
ここ以上にモーツァルトゆかりの地は他にも沢山ヨーロッパにあるので、ヨーロッパにいる間に巡れられたら幸せだな、と夢をみています。夢の実現の為にはお金を貯めないとですね。


ベルトラムカまでの道しるべ。
街中でモーツァルトの名前を見つけるだけで嬉しくなりました。


ベルトラムカ入り口。
今はあまり観光客が来ないのか、閑散としていました。




ベルトラムカ
老朽化が激しく、メンテナンスは残念ながら行き届いていない気がしましたが、それでも、ここを度々訪れていたのかと思うと感慨深いものがありました。

庭にあったモーツァルトの像。
紅葉した 落ち葉と一緒に。



ベルトラムカでモーツァルトの軌跡を辿った後は、1787年10月29日に《ドン・ジョヴァンニ》が初演されたオペラ劇場、エステート劇場で《ドン・ジョヴァンニ》を聴いてきました。初演はここでモーツァルト自身が指揮をしたそうです!
オペラ劇場はそこまで大きい劇場ではありませんが、映画《アマデウス》のロケ地にもなった事でも大変有名です。
そしてここではオペラ《ドン・ジョヴァンニ》の他に、1791年に《皇帝ティトの慈悲》も初演されています。
外観はパステルグリーン、そして内装は青のベルベット、豪華な天井にはシャンデリアがあり素晴らしい佇まいでした。序曲がなるなり、この日に訪れたベルトラムカで作曲して、ここでモーツァルトが指揮をしたのか、と思うだけでも感激が止まりませんでした。
終演後はため息が出る程の満足感。演奏が、というよりもその場の空気に酔いしれた感覚でした。レチタティーヴォ(曲間のメロディー付きの喋りの部分。)の部分のチェンバロの方の演奏が素晴らしかったのが印象的でした。

(劇場での写真は後日アップさせて頂きます。)

そして今回は時間がなく、残念ながらスメタナ博物館には入れませんでしたが、プラハの街のカレル橋を見渡せる場所にあったので、前まで行ってきました。いつかまたプラハに来るチャンスに巡り会えた時は、ここを訪れようと思います。
スメタナ博物館


スメタナ博物館の前で落ち着いた佇まいでプラハの街並を見ているスメタナの像。
像の背景はカレル橋とプラハ城が見られました。

今回、こうして少しばかりですが偉大な作曲家の軌跡を垣間みられた事は、今後の音楽を勉強する上で、大きな糧の一つになりました。
今回は写真も多く、長くなってしまいました・・・。
最後まで忍耐強く読んで下さり、ありがとうございました。


おまけ。
ベルトラムカからの帰り道に出会ったねこ。
貫禄のある人相 (ニャン相)でした。



9月の出来事 その③ 〜 修了演奏会 〜

頂いたバラ

引き続き、9月の出来事 その③です。
9月28日に、勉強させて頂いた一年間のコースの修了コンサートがありました。
今回歌ったのは、
モーツァルト作曲歌劇《 羊飼いの王様 》よりアミンタのアリア “ L'ameròsarò costante ”  ( 彼女をわたしは愛そう、生涯変わらずに ) 
ベッリーニ作曲歌劇《 カプレーティ家とモンテッキ家 》よりロミオとジュリエッタのデュエット " Ah, crudel, d'onor ragioni "ああ、酷い、きみは名誉を口にするのか )の2曲でした。

《 羊飼いの王様 》はモーツァルトが19歳( 十代! )の時に書いた作品で、マリア・テレジアの子供、マクシミリアン・フランツがザルツブルクを訪問した際の祝賀のために作曲されたオペラだそうです。このアリアを歌うアミンタは羊飼いの若者の役で、当時はカストラートが歌っていましたが、今ではソプラノが歌うというのが通常になっています。歌とヴァイオリンとの掛け合いがゆったりと優雅で美しく、とても有名なアリアです。今回はヴァイオリンの代わりに同じコースに在籍していたオーボイストと一緒に演奏させて頂きました。

そして、現在の声楽の先生からの勧めで、私の大の苦手なイタリアオペラのベッリーニのデュエットにも今回挑戦しました。現在同門のソプラノの方と演奏させて頂きました。このストーリーは書かずとも誰もが知っているロミオとジュリエットの悲劇のお話です。
ベッリーニから申しますと、一言で言って、完敗。ベッリーニは私にとっては声種に合わずに重過ぎる、という事は私自身も私の師匠も分かってはいましたが、今回どうしても門下生の中でデュエットをさせたいとう先生たっての希望で、実際はソプラノとメゾソプラノが演奏しますが、私がリリコレジェッロソプラノ(軽い声のソプラノ)、もう一人がドラマティックソプラノ(立派な浪々とした声のソプラノ)という事だったのでこの曲になりました。(演奏時の写真がありませんが・・・。)
苦手分野の上に、まさかのプログラムの トリ。反省点は数えきれない程だくさんありましたが、これも一つの勉強になりました。この曲はまたじっくり、ゆっくり復習い直したいです。

そしてモーツァルトのアリアは、数年前に日本モーツァルト音楽コンクールの本選で歌った曲だったので、他の作品に比べると慣れていましたし、オーボエの方に音楽的に存分に助けて頂き、今回とても楽しんで歌う事ができました。モーツァルトコンクールの時は失敗ばかりで良い印象が自分の中に残っておらずコンクール終了後はどん底に突き落とされたように落ち込んでいましたが、今回、伸び伸び音楽を楽しんで歌えた事は良い経験になりました。
モーツァルトはメロディーがシンプルだからこそ、神経を研ぎすませて歌わなければいけない難しさがありますが、一旦その音楽の魔法にかかってしまうと、あっと言う間に天上に引き上げられたように嬉しくなる、そんな音楽を作曲したモーツァルトって本当に天才・・・!!と誰でも言える様なコメントしか湧いてきませんが、兎に角モーツァルトの音楽、大好きです。

一年間という時間はまるで3分間砂時計の様にあっという間で、一年間果たして何が出来ただろうか、上達しただろうか・・・と反省、思う所は沢山ありますが、まずは健康が守られて大好きな先生の元で勉強でき、無事に修了できた事に神様に、支えて下さった方々に心から感謝します。残りの留学生活も大切に過ごさなければという思いとともに、修了演奏会を終えました。



修了演奏会風景 
終演後、オーボエニストの荒絵里子さんと。
(彼女は今東京交響楽団の主席オーボエ奏者として活躍されています。)

修了証書を学長から頂いているところです。
誰かのビデオカメラと重なってしまっていますが・・・。

頂いたお花たち





9月の出来事 その② 〜 ハンブルク・大阪 友好都市提携25周年記念レセプション 〜

さて、引き続き9月の出来事その②です。
ハンブルクはいくつもの都市と友好都市提携を結んでいますが、日本の大阪もその一つです。同じ港街、商業都市として提携してから今年でちょうど25周年という事で、大阪副市長をはじめとした視察団がハンブルクを訪問し、ビジネスクラブハンブルク( Business Club Hamburg )という会場でレセプションパーティーが行われ、そこでゲストとして演奏をさせて頂きました。
私が演奏させて頂く事になったきっかけは独日協会の会員でもあるハンブルク音楽院の学長が推薦して下さり、この日はハンブルクにゆかりのあるメンデルスゾーン作曲の “ 歌の翼に ”、ヘンデルのオペラ『エジプトのジュリアス•シーザー』よりクレオパトラのアリア “ 嵐の海で難破した小舟は ”、そして日本歌曲の越谷越之助 “ 初恋 ” を歌わせて頂いてきました。
レセプションには大阪市関係者は勿論、ハンブルクで活躍されている日本企業の方、外交官、ハンブルク領事館館長、独日協会会長、ハンブルク日本人学校校長先生、ハンブルクさくらの女王等々、様々な方々がいらっしゃっていましたが、オフィシャルパーティーという様な場に慣れていない私の事なので、相当緊張するだろうな・・・、と思っていたのですが、演奏に皆さん温かく耳を傾けて下さり、思いのほか伸び伸びと歌わせて頂く事ができました。
演奏後は、色々な方と交流させて頂き貴重なお話も伺えて、とても有意義な時間を過ごす事ができました。企業の方の中にはお仕事でドイツに住んで30年以上経つ方もいらっしゃり、ハンブルクの耳寄りな情報も教えて頂けたりもしました。
しかし、実のところ、客船で大阪湾にしか降り立った事がない私だったので、大阪の企業の方とお話させて頂いている時に、「大阪に来た事がないなんて、ダメじゃないですか〜!是非来て下さいね!」と笑いながらお叱りも頂いたので、近い将来、是非大阪の街に伺い、楽しいもの、美味しいものを堪能できたらと思います。

この日は、日本の方々は演奏させて頂いた3曲の中で“ 初恋 ” が一番良かった、と言って下さる方が多く、やはり母国語の曲は大切にしていかなくては、と改めて思いました。


余談ですが、この曲は祖母が大好きな曲で、新潟出身の祖母がまだ若かりし頃のある日、浜辺で一人の青年が日本海に向かって大きな声でこの“ 初恋 ” を熱唱していたそうです。堂々と大きな声で歌うその後ろ姿がとても印象的だったと、祖母はいつも話してくれます。

「後ろ姿しか見なかったから顔は見られなかったけど、もし振り返って彼が素敵な人だったら、もしかしたらおじいちゃんとは結婚していなかったかもしれないわ〜!」と冗談で笑って話していました。そして、これは祖母の想像での話ですが、この当時は戦時中で殆どの男性に召集令状が届く時代。海辺で大きな声で歌っていた男性の元にも赤紙召集令状が届き次の日に兵隊として戦争に行く人だったのではないか、とも祖母は言っていました。
祖母の小学校の先生も赤紙をもった次の日に戦地に赴いて行ったそうです。私の父方、母方の両祖父も戦争に行きました。父方の祖父の弟は戦死しています。祖父が書いた本『戦争と我が青春』( 加藤好悦 著 )に書かれてある体験記も昔読んで少し学びましたが、祖父、祖母の時代の人々には青春がなかったと言います。戦後今年で69年、来年70年です。この戦争の記憶が薄れつつある中、今の世の中はまた同じ歴史を辿ろうとしているように思えてなりません。ある海外のまだ教育が行き届いていない国の教育機関で活動されている方の、「戦車はすぐ作れるのに、どうして学校は作れないのか」という言葉が胸に突き刺さった事を覚えています。
私一人にはどうする事もできないのも現実ですが、常に平和を思う、願う者でありたい、と切に祈ります。
余談が長くなりましたが 、“ 初恋 ”を歌う時は祖母の思い出話と日本海の浜辺、そして戦争が約70年前にあったこと、を思い出します
それにしても、祖母が祖父と結婚してくれていなかったら今の私はいないので、戦争から無事に帰って来てくれた祖父と、無事(?)に結婚してくれて本当に良かったと思う今日この頃、両祖父・祖母にも感謝です。 


当日会場に貼られていたポスター。


ビジネスクラブハンブルクの前で。


ビジネスクラブハンブルクの外観。
エルベ川沿いにあり、中からの景色も綺麗でした。

オープニングの半ばでヘンデルを演奏している風景。

会食後にメンデルスゾーンと日本歌曲を演奏している風景。

レセプション終了後の一枚。
頂いた大阪のハガキとハンブルクのノート。










9月の出来事 その①  〜 ブレーメンでの演奏会 〜

 ハンブルクは川や海が近いせいもあって、潮風の様な風が吹き、体感温度は更に寒く感じます。ドイツでは我が大切な友 “ホッカイロ” が売っていないので、ドイツで販売したら売れるのではなかろうか、と常々感じているのですが・・・それともやはり体温の高いヨーロッパ人には必要ないのでしょうか・・・羨ましい限りです。
 そしてハンブルクではカモメを至る所で見ますが、先日通学途中に今までで一番間近でカモメを見ました。確実に私にエサを期待していたのでしょうが、私を目がけて飛んできてくれました。でもその時カバンに入っていた唯一の食べ物はのど飴。残念ながらさすがにお裾分けはできませんでしたが、とてもくりくりした目でこちらに近づいてきて、しっかりポーズを決めてくれたので、写真に収めさせてもらいました。(なんだか毎回動物の写真が多くて申し訳ありませんが、どうも至る所で動物が目に入ってしまいます・・・。)





さて、引き続いて今日も過ぎし日の事を書こうと思います。
今回は9月の出来事 その①です。

9月20日に学校の同期生と一緒にブレーメンへ演奏旅行に行きました。
会場はブレーメンにある教会でした。
当日は気持ちの良いお天気で、気分も明るくハンブルク中央駅からRegional( 地域内快速列車 )に揺られること約1時間半。あっという間に着きました。
現地に到着して会場入りをし、リハーサル後は18時からの本番に向けてそれぞれ思い思いの時間を楽屋で過ごしました。

今回私が歌わせて頂いた曲はR.シュトラウスの“ Wasserrose ”( 睡蓮 ) とファニー・ヘンゼル・メンデルスゾーン作曲のバリトンとの2重唱 “ In der stillen Mitternacht ” ( 静かな真夜中に )の2曲でした。
“ 睡蓮 ”という曲はR.シュトラウスの4つの歌曲(作品22)「乙女の花」(1. Kornblumen ( 矢車草 )、2. Mohnblumen ( ケシの花 )、3. Epheu ( 木蔦 )、4. Wasserrose ( 睡蓮 ) )の4曲目にあたる曲です。
この曲は学部3年生の時に、今は亡き師匠の朝倉蒼生先生が勧めて下さってその年に参加した友愛ドイツリート歌曲コンクール学生の部の本選で歌った思い出の曲でした。
当時はまだ、ハーモニーの色彩が次々に移り変わっていくR. シュトラウスならではの世界観に馴染めないまま歌っていた様に思います。
当時、朝倉先生が「あなたの声はR. シュトラウスも合うわね。」と言って下さったのですが、私は当時R. シュトラウスの音楽の波について行けずに苦手意識ばかりが先に立っていたので、先生につい、「先生、R.シュトラウスの音楽って、ハーモニーもよく分からなくて理解しずらくて、私にとって難し過ぎて歌いにくいんです・・・。」とはっきり言ってしまったのを今でも覚えています。先生は「あら、そう〜?」と不思議そうな顔をなさっていましたが・・・当時の私にはそう言わざるを得なかったのです。それが本心でした。

今となっては、R. シュトラウスの色彩豊かな次から次に溢れる様に出現するハーモニーがたまらなく好きですが、時間が経たないとその “良さ” がわからないものもあるのですね。年をとるのは好きではありませんが、でも年を重ねるって大切な事ですね。

そんなわけで、昔歌った曲を掘り返して歌ったので、当時の癖などもついていて、レッスンでは色々と注意されましたが、今回の演奏を通してこの曲が更に好きになりました。
歌詞の内容はとても幻想的で、月の光に照らされた池の水面の上で静かに咲く睡蓮、銀色の世界が描かれている素晴らしい作品です。一つのフレーズがとても長く、それでいて繊細に歌うべき箇所が沢山出て来るので、とても難しい作品ではありますが、この曲の世界観がとても好きです。

そして、ファニー・ヘンゼル・メンデルスゾーン( 以後 F.ヘンゼル )の2重唱。F.ヘンゼルはあのフェリックス・メンデルスゾーンの姉としても有名ですが、彼女自身ピアニストでもあり女流作曲家でもあった人でした。今現在は再注目されている作曲家の一人のようでで、音大での勉強会や演奏会、販売されているCDのプログラムの中でもその名前は良く目にしますが、やはり弟の方が今でも知名度は高いのかもしれません。でも噂によると、弟メンデルスゾーンの作品も姉のF.ヘンゼルが書き、弟の名前で世の中に出した作品もいくつもあり、実際は彼女の方が音楽的才能があったのではないか、という話も聞いたこともあります。やはり女性が男性と同等に名前を世に出せない当時の時代背景の影響もあったのではないでしょうか。

この曲は今回初めて歌わせて頂きました。あまり知られていない作品で、演奏時間はそこまで長くはありませんが、とてもドラマチックな曲です。11世紀のスペインが舞台の、若き将軍ロドリーゴとその恋人のヒメネが愛と苦悩を歌った作品です。バリトンと聞くと、オペラでは大体が父親役か悪役か、神様のような役か、といった役が多いですが、今回は恋人の役。ソプラノは彼に自分の父親を殺されてしまい、憎悪と愛の狭間で苦しむ女性の役。全く余計な話ですが、お父さんっ子の私としても想像しただけで心が痛む作品です。曲調は最後まで暗〜い雰囲気だったので、歌っていても重〜い、悲し〜い作品でした。(形容詞の間に“ 〜 ”を入れないとやっていられません。)
この曲はもう少し歌い方、解釈に熟考と練習が必要だと感じました。

今回の教会はとにかく響きがありずぎてしまい、まるで銭湯で歌っている様な感覚に陥りました。今回はどちらもそこまでテンポの早い曲ではありませんでしたが、それでもやはり教会には教会の響きに合った曲を演奏するのが一番素敵だと感じた時間でもありました。その空間に合った選曲も大切ですね。

私はこの3日後にハンブルクで本番があった為、終演後ブレーメンに宿泊せずに急いで帰って来てしまったので、残念ながらゆっくり市内を観光する時間がありませんでしたが、いつかゆっくり訪れてみたい街の一つです。


会場の教会にて、リハーサル前。
演奏風景
かなりブレてしまっていてますが・・・。

有名なブレーメンの音楽隊の像。
今回市内を見学できなかったので、ブレーメン駅で買ったハガキ(一部)をお借りして。
よく考えると、これも動物でした。






8月の出来事  〜 お部屋探し〜

ついにハンブルクも気温がマイナスの日々がやってきました。
それでも夜になると、クリスマスマーケットは賑わっています。
冬になるとドイツ人は外に出ない、とドイツに来る前は聞いていましたが、クリスマスマーケットは全く別です。行く手を阻む、人、人、人。
それでも、今日も最寄りの駅前に開かれているクリスマスマーケットを通って帰宅しましたが、それぞれのお店からはソーセージやグリューワイン、甘いお菓子の良い香りが漂っていました。今日もあまりの良い香りの誘惑に負け、シュマルツクーヘン(小さなドーナツの様な揚げ菓子に粉砂糖がたっぷりかかった、クリスマスマーケット定番のお菓子)を買ってしまいました。
これも冬眠の準備、いやいや。。。ただただ確実に太りそうです・・・。

さて、今回は8月の出来事を書こうと思います。この時期がある意味一番ストレスに苛まれていたかもしれません。

というのも、今まで住んでいたお部屋が9月一杯の契約だったので、次に住む新しいお部屋を探さなくてはならなかったからです。9月終わりには引っ越さなくてはいけないのに、8月の頭までマスタークラスでニュルンベルクにいた為、お部屋探しを開始したのが、8月の2週目から・・・というなんとも遅い出だし。早急に色々な人に情報を聞き、Hamburger Abendblattというハンブルクの新聞の毎週決まった曜日にでる空き部屋情報に目を凝らし、ハンブルク大学やドイツの教会のインフォメーションの壁に、私がお部屋を探しているという紙を張りつけ、またそこに貼ってあった情報を入手し、毎日インターネットの画面とにらめっこしながら情報を探す、もうこれでもかという程色々探しました。
良さそうな物件を見つけては、そこに電話やメールで連絡をいれ、見学の日取りを約束し、見学に行きました。

ここに住みたい!と思っても、ドイツの秋は新年度でお部屋を探しているドイツ人も 沢山!見学が一般公開見学の時には一つのお部屋に対して15人〜20人は確実に見学にきていて、お部屋を気に入った人は、それぞれ紙に個人情報を書き、提出。その中から大家が住人を選ぶ、という流れでした。しかし、当たり前の話ですが、外国人はまず選ばれる確立は極めて低いのです。
ドイツ人から見れば、見た目からも立派な一人前の成人に見えない、ましては日本人学生の私が一人で行った所でドイツ人に相手にされないと思ったので、途中から知り合いや ドイツ人の友人に頼んで一緒について来てもらったりもしました。

WG( Wohngemeinschaftの略 )といって他人と一つの住居をシェアする物件も含め、ハンブルク市内のあちらこちらを10件以上は見学に行きました。今までハンブルク市内それぞれの地区の場所に疎かった私ですが、これを機に大分把握できるようになりました。

ドイツ人でさえもお部屋探しは大変で、日本人の中には6ヶ月間も見つからなかった人もいたとも知り合いから聞いていましたが、実際本当に難しく、私が気に入っても希望を出している候補者が多く、選ばれなかったり、家賃が学生の私にとっては高過ぎたり(ハンブルクは物価がドイツの中でも高いとの事)、びっくりするくらいボロボロのお部屋、ハンブルクの郊外で交通の便が不便な雑木林の近くのお部屋、情報が少ないまま見学に行って蓋を空けてみたら全く知らない怖そうなおじさんと二人暮らしになってしまうお部屋、ユダヤ人が経営するヨーロッパ人男女混合の10人WGでお風呂が1つのお部屋、と記憶に残る物件ばかりでしたが、なかなか住むとなると選択するには考えてしまう状況でした。

お部屋が見つからなかったらどうしよう・・・路上生活になってしまうのでは・・・という不安で夜がなかなか寝付けない日もありました。
何も進展のないまま3週間、ついに9月頭になっていました。そんな中、夜中にパソコンを血眼で凝視していたある日、ハンブルクの人気の街にドイツ人女性とのWGの物件を発見!その時はもう夜中でしたが、もの凄いスピードで(スピードも大事なのです。1日で既に住居人が決まるパターンもあるのです。)、自己紹介とともにお部屋を見学したい旨をメールしました。
お返事をもらえるまでに3日かかりましたが、見学できる事になり緊張しながらも見学にいきました。住人の方はドイツ人のご年配の女性で、病気の子供達に英語とフランス語を教えている語学 教師で、趣味は音楽、声楽も習っているとの事で、お部屋もキッチンも綺麗で、お値段も今まで見学したお部屋の中で一番安く、とても良い感触で気に入りました。
ただ・・・他にも見学者がいたとの事だったので、今までの様に日本人の私は選ばれにくいだろうな、と半分諦めていたのですが、次の日に連絡があり、10月から住める事になりました。
この連絡をもらった時の安堵感といったら。。。わた飴を口の中にいれた時の感じとでも言いましょうか・・・とにかくほ〜っとしました。良かった〜、、、の一言です。転出日の約3週間前でした。

という訳で、今はこの新しいお部屋で生活をしています。
ここは交通の便も良く、学校までも行きやすく、街中にはスーパーやビオショップ(有機食品や雑貨のお店)、銀行からイケア( IKEA. 日本でもおなじみ、スウェーデン発祥の世界最大の大型家具販売店 )まで何でもある街です。そしてICE(ドイツの新幹線)の停車駅でもあります。
そして以前のお部屋は音出しが出来なかったのですが、ここのお部屋は私が住居人として決まる前に、同居人の方が、近所の方(アパートメントなので上、お隣、下に住んでいる方々全て)に、私が歌を勉強していて、練習しても迷惑にならないかどうかを聞いてくれました。
幸い住人の方々は皆音楽好きの方ばかりで、むしろ歓迎との事で本当に感謝でした。

ただ、お部屋の壁が少し薄く、隣に音が漏れるという事もあり、更に私の練習は毎回曲全体を通す訳ではなく、むしろ同じフレーズを壊れたレコードの様に何度も繰り返したり、端から見たら(聞いたら?) 呪文のような発声と、、、決して耳に優しい、ましてや美しいメロディではないので少し心配もあり、引っ越しをしてからもなるべく学校に行って練習をしていました。

が、つい先日どうしても学校に行けなかったのでついに、今日はお部屋で練習します、と同居人に伝えたところ、

「隣から全然練習の歌声が聴こえてこないけど、あなたの練習を今か今かと楽しみに待ってるって、お隣さんが言ってたわよ。」と言われました。

え〜っ!?

と思いましたが、その日は、“私の練習を楽しみに待っていて下さったお隣さん” に聴かれている、というプレッシャーとともに、リクエストにお応えして随分と長く練習してしまったので、果たして苦情は来ないだろうかと、ヒヤヒヤしましたが・・・大丈夫でした。

これからは徐々にお部屋での練習回数を増やしていこうかと思っていますが、お部屋で練習できる〜!という喜びを抱く反面、私の “壊れたレコードの様な練習という名の騒音” を防音の効いていないお部屋でご披露するという事に抵抗を感じている自分に、あぁ、私は歌い手としてまだまだ肝が座っていないな・・・と痛感する今日この頃です。
それでも、理解のある方々が住む場所に住まわせて頂けて、感謝です。

そしてそんな住宅の前で、つい先日の夜遅く、帰宅時にばったりハリネズミに遭遇しました。
野生のハリネズミに出会うのは初めてだったので、可愛らしくコロコロ歩く針山に感激し、ついつい「君はどこから来たの?どこに住んでるの?」と話しかけながら、私を警戒してじっとその場に凍り付く彼(彼女?)を至近距離から何枚も携帯で激写。
この日から、ハリネズミのファンになりました。
次はいつこの子に会えるかしら・・・期待は膨らみます。



家の前でばったり出会ったハリネズミ
名前の通り、本当に針だらけ。
でもコロコロ歩くその姿は本当に可愛かったです。

予期せぬ私との遭遇に凍り付いていました・・・
至近距離で沢山写真を撮ってごめんね。