9月の出来事 その② 〜 ハンブルク・大阪 友好都市提携25周年記念レセプション 〜

さて、引き続き9月の出来事その②です。
ハンブルクはいくつもの都市と友好都市提携を結んでいますが、日本の大阪もその一つです。同じ港街、商業都市として提携してから今年でちょうど25周年という事で、大阪副市長をはじめとした視察団がハンブルクを訪問し、ビジネスクラブハンブルク( Business Club Hamburg )という会場でレセプションパーティーが行われ、そこでゲストとして演奏をさせて頂きました。
私が演奏させて頂く事になったきっかけは独日協会の会員でもあるハンブルク音楽院の学長が推薦して下さり、この日はハンブルクにゆかりのあるメンデルスゾーン作曲の “ 歌の翼に ”、ヘンデルのオペラ『エジプトのジュリアス•シーザー』よりクレオパトラのアリア “ 嵐の海で難破した小舟は ”、そして日本歌曲の越谷越之助 “ 初恋 ” を歌わせて頂いてきました。
レセプションには大阪市関係者は勿論、ハンブルクで活躍されている日本企業の方、外交官、ハンブルク領事館館長、独日協会会長、ハンブルク日本人学校校長先生、ハンブルクさくらの女王等々、様々な方々がいらっしゃっていましたが、オフィシャルパーティーという様な場に慣れていない私の事なので、相当緊張するだろうな・・・、と思っていたのですが、演奏に皆さん温かく耳を傾けて下さり、思いのほか伸び伸びと歌わせて頂く事ができました。
演奏後は、色々な方と交流させて頂き貴重なお話も伺えて、とても有意義な時間を過ごす事ができました。企業の方の中にはお仕事でドイツに住んで30年以上経つ方もいらっしゃり、ハンブルクの耳寄りな情報も教えて頂けたりもしました。
しかし、実のところ、客船で大阪湾にしか降り立った事がない私だったので、大阪の企業の方とお話させて頂いている時に、「大阪に来た事がないなんて、ダメじゃないですか〜!是非来て下さいね!」と笑いながらお叱りも頂いたので、近い将来、是非大阪の街に伺い、楽しいもの、美味しいものを堪能できたらと思います。

この日は、日本の方々は演奏させて頂いた3曲の中で“ 初恋 ” が一番良かった、と言って下さる方が多く、やはり母国語の曲は大切にしていかなくては、と改めて思いました。


余談ですが、この曲は祖母が大好きな曲で、新潟出身の祖母がまだ若かりし頃のある日、浜辺で一人の青年が日本海に向かって大きな声でこの“ 初恋 ” を熱唱していたそうです。堂々と大きな声で歌うその後ろ姿がとても印象的だったと、祖母はいつも話してくれます。

「後ろ姿しか見なかったから顔は見られなかったけど、もし振り返って彼が素敵な人だったら、もしかしたらおじいちゃんとは結婚していなかったかもしれないわ〜!」と冗談で笑って話していました。そして、これは祖母の想像での話ですが、この当時は戦時中で殆どの男性に召集令状が届く時代。海辺で大きな声で歌っていた男性の元にも赤紙召集令状が届き次の日に兵隊として戦争に行く人だったのではないか、とも祖母は言っていました。
祖母の小学校の先生も赤紙をもった次の日に戦地に赴いて行ったそうです。私の父方、母方の両祖父も戦争に行きました。父方の祖父の弟は戦死しています。祖父が書いた本『戦争と我が青春』( 加藤好悦 著 )に書かれてある体験記も昔読んで少し学びましたが、祖父、祖母の時代の人々には青春がなかったと言います。戦後今年で69年、来年70年です。この戦争の記憶が薄れつつある中、今の世の中はまた同じ歴史を辿ろうとしているように思えてなりません。ある海外のまだ教育が行き届いていない国の教育機関で活動されている方の、「戦車はすぐ作れるのに、どうして学校は作れないのか」という言葉が胸に突き刺さった事を覚えています。
私一人にはどうする事もできないのも現実ですが、常に平和を思う、願う者でありたい、と切に祈ります。
余談が長くなりましたが 、“ 初恋 ”を歌う時は祖母の思い出話と日本海の浜辺、そして戦争が約70年前にあったこと、を思い出します
それにしても、祖母が祖父と結婚してくれていなかったら今の私はいないので、戦争から無事に帰って来てくれた祖父と、無事(?)に結婚してくれて本当に良かったと思う今日この頃、両祖父・祖母にも感謝です。 


当日会場に貼られていたポスター。


ビジネスクラブハンブルクの前で。


ビジネスクラブハンブルクの外観。
エルベ川沿いにあり、中からの景色も綺麗でした。

オープニングの半ばでヘンデルを演奏している風景。

会食後にメンデルスゾーンと日本歌曲を演奏している風景。

レセプション終了後の一枚。
頂いた大阪のハガキとハンブルクのノート。