8月(2016年)の出来事 その② MDRでの仕事開始

空港からライプツィヒへ向かう電車の中からの夕日

一時帰国を終え、休む間もなく8月8日にMDRの本社へ契約書にサインをしに行きました。
本来もっと早く契約を結ぶはずだったのですが、労働ビザの発行が予定していたよりも大幅に遅れ、契約日の3日前にビザがやっとおり(日本からドイツに飛ぶ数日前に外国人局からその旨のメールが届きました。これが下りないとドイツで働けないので、無事に下りて母と安堵したのを覚えています。)、ドイツに戻った次の朝に契約、2日後に初出勤を無事を迎えました。6月からの1ヶ月半の間にライプツィヒでの家探し、引越し、日本帰国、京都での本番、ドイツへ再び戻る、と休む間もなかったので、本社での契約日、あまりに疲労していたので、大量の契約書に辞書を片手に目を通す時、何度も机の上で突っ伏して寝てしまいたい気持ちになったのはここだけの話です・・・。まるで中学生時代の授業中のようでした・・・。



契約日。MDR放送局。

そんな目まぐるしい日々でしたが、出勤初日の練習前にマネージャーが「今日から働く新しいソプラノ、Mai Katoを紹介します。」とアナウンスをしてくださり、団員の方々もとても快く接してくれ感謝でした。


職場のMDRタワー(左)とライプツィヒ大学(右)


初練習では合唱団の音楽のレベルの高さに、今まで忙しかったこともすっかり忘れ幸せなひと時でした。そしてソロパートを歌う歌手の上手さにも驚き、初日から沢山の刺激を受けました。
しかしこの日に手渡された楽譜の数、全23曲。おまけに全てチンプンカンプンのロシア語・・・。
私の知っているロシア語と言えば、父から教えてもらったодин/アジン(1)、два/ドヴァー(2)、три/トリー(3) と、Да/ダー(はい)くらいしか知らなかったので、発音するだけでも大変。この日以来、ロシア音楽との格闘が始まるのでした。
それでも練習を重ねていくごとに、ドイツ人でもロシア語の発音は大変だという事がわかってきて少し安堵。皆休憩中に至る所で(トイレでも。これはだいぶ面白い光景でした。笑) ロシア語の「L」の発音を皆で連呼していました。(喉に飲み込むような発音なのですが、何度やっても発音指導の方から注意を受けました・・・。)


そしてもう一つ大きな不安、それは女性で正式団員としてMDRに入団したアジア人は私が初めてということで、日本人が一人もいないという人生初めてのこの状況(韓国人は男声に4人もいるのですが・・・)。そんなのドイツだから当たり前!と言いたいところですが、留学していたハンブルクの学校には日本人が沢山いたので、仕事が始まるずっと前からこの場所で本当に私はやっていけるのだろうか、と不安で一杯でしたが、いざ仕事が始まってしまうと、もうそんな事も言ってられない程、目の前にはやらなければいけない事が盛り沢山。初勤務1週間後には2つ本番を控えていて、これから数日で新しい作品を次々に仕上げていく訓練が始まるのでした。人生、いろいろな試練があります。
それでも、今回ラフマニノフの作品がプログラムの中心だったのですが、混声の厚みと深みが存分に生かされた傑作で、素晴らしい作品に出会う事ができました。

MDRでの初めての本番は、後期バロック音楽を代表する作曲家ゲオルク・フィリップ・テレマンの出身地でもあるマクデブルク(ライプツィヒから約130キロ)にある聖マウリティウス・聖カタリーナ大聖堂(ドイツ最古のゴシック建築)での演奏会でした。

マウリティウス・聖カタリーナ大聖堂の外観。
実際に見るととても巨大でした。


マウリティウス・聖カタリーナ大聖堂の中庭。

大聖堂の中

大きななパイプオルガンもありました。

そして次の日はライプツィヒから約45キロの都市ナウムブルクの大聖堂(正式名称は聖ペーターとパウル教会。創建は11世紀。ロマネスク様式からゴシック様式への移行期にあたる教会建築で、中世宗教芸術の宝庫だそうです。)での演奏会でした。両日ともライプツィヒから大型バスで移動でした。




4塔の十字形会堂でした



ステンドグラスに圧倒されました。
ステンドグラスの下部には”ナウムブルクの作家(ナウムブルク・マイスター)”と呼ばれる無名の彫刻家たちの作品が12体並び(その中でも"エッケハルトとウタ"の像が有名なのですが、携帯の写真がエラーでアップできなかったので、残念ながらここでは割愛します。)ドイツ・ゴシック彫刻の代表作だそうです。

西内陣の仕切り柵にはキリスト伝が彫られていました
中庭も歴史の重みを感じる空間でした。




マクデブルクでの演奏会では、MDRの黒いロングドレス(昔の団員さんのお下がりでその中で一番小さなサイズだったのですが・・・)が長すぎて、教会中を掃除してきたの?と言われる程裾が真っ白になり、本番直前に同僚から「マイのドレス、大きすぎるね・・・。」と笑われたり(でもこのお陰で緊張が解れましたが。)、アメリカ人の同僚から「今日はマイのMDRでの初演奏会だね!楽しんで!」と満面の笑みで励まされたり、ナウムブルクでは終演後、隣の同僚が「良く歌えたね!」と学校の先生の様に褒めてくれたり、ライプツィヒへ帰るバスの中では、「マイ!初仕事終演おめでとう!」と周りの同僚たちが言ってくれたりと、心温まる、思い出深いものとなりました。
そして今書きながら思い出しましたが、今回プログラム後半に演奏したラフマニノフの作品「ヴェスペレ(晩祷)」が休みなしの1時間の作品、ロシアものとあってものすごく体力と集中力を消耗する作品で、演奏後拍手が会場に鳴り響く中、団員一同でお辞儀をしたと同時に皆で「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」と大きく息を吐いたことも忘れられません。この作品は同年11月にライプツィヒのペテロ教会で再演、そしてCD録音をする事になります。

本番中に持っていた譜面は緊張からの手汗でビッショリでしたが、それでも無事に終える事ができて感謝でした。さて、次の公演は客演で8月末から私にとってのMDR初の演奏旅行(スイスのバーゼル)です。





8月(2016年)の出来事 その① ロームスカラシップコンサート

一時帰国!

2016年8月上旬にロームスカラシップコンサートに出演する為に、7月下旬から日本に一時帰国をしました。
帰国で何が一番楽しみだったかというと、愛猫たちとの再会、日本食、そして久しぶりの方々にお会いすること。
何が一番心配だったかというと、日本の夏の暑さに耐えられるかということ。
成田空港に到着して飛行機から降り立った瞬間、日本の高湿度のモワ〜ンとした空気を思わず胸いっぱいに吸い込み、あぁ〜、日本に帰って来た〜!と実感しました。

実家に帰宅すると玄関で末っ子猫のジョイがスリスリと駆け寄ってきて出迎えてくれました。それでも一番初めの挨拶は最年長の今は亡き猫ミカエルへと決めていました。それからジョイ、そして母にしか懐いていない(餌をねだる時だけ父にも擦り寄りますが)ララには遠くから挨拶をし、一通り久しぶりの再会の挨拶を済ませ、この日は長旅でぐったりしていたのでひたすら爆睡。

今は亡き愛猫ミカエル。
よぼよぼおじいちゃん猫でしたが私の中で一番の猫です。


数日後、学生時代からお世話になっているピアニストの山田くん(今や"先生"と呼ぶべきですが、、、。)のお宅へ(お家が実家と近くなのです。)久しぶりの合わせのためにお邪魔しました。久しぶりのピアノ合わせでしたが、相変わらずしっかりと私の呼吸に合わせてくださり、気持ち良く合わせをすることができました。1曲ごとにピアニストと話し合いながら曲を作っていくのは楽しい作業です。

ロームスカラシップコンサートはロームミュージックファンデーションの本社がある京都での演奏会でした。コンサート会場は府民ホールアルティ。京都は関東よりも蒸暑く感じました。
コンサートは名の通り、ロームミュージックファンデーション奨学生によるもので、現在留学中、または留学を終えた音楽家が世界各国から集まりました。
周りの方々が素晴らしい方々ばかりでしたので恐れ多い気持ちでいっぱいでしたが、滞在するホテルやおいしい和食のお弁当も用意してくださり、感じ良く対応してくださる関係者とスタッフの方々、終演後には手土産まで頂き、最初から最後まで手厚いおもてなしをしてくださり、本当に感謝な一日となりました。
演奏会では、4月のハンブルクでの修了演奏会のプログラムから数曲、ハイドン、ヘンデル、メンデルスゾーン、ローレム、山田耕筰と私の好きな曲を選曲させて頂きました。
演奏会数日前、注意していたもののしっかり夏風邪を引き、いろいろと不安と反省の多い演奏会でしたが、温かいお客様にも励まされて、無事に終演することができました。
会場が京都だったこともあり、普段はなかなか会えない親戚が和歌山、大阪、鳥取から応援に駆けつけてくださり、数十年ぶりに再会することもでき、嬉しいひと時でした。



撮影:佐々木 卓男(Tatsuo Sasaki)

撮影:佐々木 卓男(Tatsuo Sasaki)

撮影:佐々木 卓男(Tatsuo Sasaki)

撮影:佐々木 卓男(Tatsuo Sasaki)


Youtubeに演奏会の時の映像がアップされていました。
ショートバージョンの動画にも取り上げてくださりとても恐縮ではありますが、ロームミュージックファンデーションの2年間のお力添えなくしては、ドイツへの留学は叶わなかったので本当に感謝しています。これほどまでに良くしてくだった奨学金制度は日本には他にないのではないでしょうか。


 


日本各地から親戚が応援に駆けつけてくれました。
数十年ぶりの懐かしい再会でした。

スカラシップコンサートの楽屋で出して頂いたお弁当。
実に美味しいお弁当でした!

演奏会の2日後には仕事でドイツに戻らなくてはならなかったため、残念ながらゆっくり京都には滞在できませんでしたが(いつか心置きなく京都を巡りたいです)、京都から東京に戻る帰りに、母の実家の愛知県岡崎市へ祖母に会いに数時間寄り、短い時間でしたがこれもまた懐かしい再会でした。岡崎駅で岡崎花火まつりの宣伝を目にし、小さい頃(おそらく3〜4歳)に家族で観に行ったことを思い出しました。別れ際には祖母をお迎えに来ていた叔母が、ドイツに持って帰るためお土産を沢山持たせてくれ感謝でした。

懐かしの岡崎駅

あっと言う間の日本滞在、もう少しゆっくり滞在したかった・・・、と後ろ髪を引かれるような思いと共にドイツへ戻ったのでした。
この2日後からいよいよ、ライプツィヒでMDRと正式契約し、仕事が始まります。

おまけの写真。
実家のわんぱくジョイにも癒されました。
洗濯カゴに自ら入り、、、

取手から顔と腕を出すジョイ。
何事にもいつも真剣に取り組む彼の姿勢からは学ぶべきものがあります。(笑)












7月(2016年)の出来事 中古自転車を買う

自転車を求めて歩き回っていた途中の一枚

私のうん10年の人生でベスト10に入るくらい大変だったハンブルクからライプツィヒへのお引越しも、色々な方のご協力をお借りして無事に終え、なんとかライプツィヒ生活をスタートさせた2016年7月。交通手段はもっぱら歩きか路面電車だったのですが、もっと早く簡単に移動したいと考え、インターネットのebay(色々な中古品を一般の人たちが出品しているサイト)で中古自転車を探しました。希望は155センチの私の背丈でも乗れるサイズでカゴ付き、あまり値段が高くないもの。探しては出品者に直接メールを送って日取りを決めて実際に見せてもらって乗ってみてという感じだったのですが、まず値段、ドイツ人は基本的に中古でもあまり値段を下げないことで有名(?)で、思ったより安い自転車が見つからないので、結局コンタクトをとって実際見に行ったのは3〜4件でした。
インターネットで見る写真よりも大きすぎて、足が届かないのに関わらずせっかく来たんだからと無理にプルプルしながらゆっくり漕いでみるも、出品者にも「うん、あなたには大きすぎるわね」と言われたり、出品者のお家が遠すぎて、7月のジリジリと太陽が照りつける炎天下(この日は珍しく暑すぎる日でした。)、ライプツィヒ郊外の自然が広がる中の一本走る自動車道を汗だくになりながら永遠と歩き続け、途中でもう折り返して帰りそうになったり、移民のイラン人(多分)の大家族が出迎えてくれて子供達が見つめる中、子供サイズの大人の私が試し乗りしたりと、色々と見に行きましたが、炎天下の中遠出した所で70ユーロでまずまず自分のサイズにあったものを見つけたので、ぶっきらぼうであまり感じの良い出品者ではありませんでしたが購入を決定。ただし、これはひたすら歩いてたどり着いたお宅だったので、足も棒のようになっていたこともあって、試し乗りした時に、自転車はこんなにも楽で快適な乗り物なのか!とある意味錯覚を起こしてついつい購入してしまったのでした。インターネットで見ていた写真と違ってカゴが付いていなかったので、カゴはないかと聞くと、倉庫から外したであろうカゴとついでに取り付け用のドライバーをつけてくれました。それでも70ユーロは高かったので一応値引きしてくれるか聞くも、状態が良いからこれ以上値引きできない、と言われました。(イラン人は値引きしてくれたのですが・・・折りたたみ式自転車だったので買いませんでしたが。。。)
しかし、また来た道を永遠と歩くには涙がちょちょぎれそうだったので、もう諦めて購入。
それでも、帰りは風を切って自転車を走らせ、道を歩いている人を追い抜いては優越感を感じ(笑)、クタクタになって帰宅しました。
この時はまだ知りませんでしたが、ライプツィヒは高度差もあまりない地形らしく、自転車を使うにはもってこいの街だそうです。車道もだいたい車と自転車用の道、歩道とに分かれていて、わりと安全に乗れます。ドイツ人の男女共にガシガシと漕ぐスピードに慣れる以外は・・・。
こうして無事に移動手段を手にいれたのでした。

この7月の回には関係ありませんが、ビザの登録をしにいった際に、公園の中を突っ走る路面電車に出会いました。日本ではまず見かけない光景、面白かったのでおまけに動画をアップします。


6月(2016年)の出来事 お引越し〜ハンブルクからライプツィヒへ

ライプツィヒのとある公園

暑中お見舞い申し上げます!
日本は夏もいよいよ本番、蝉の声や風鈴の音、日本の花火の大輪の輪がとても懐かしく感じる今日この頃です。
ライプツィヒも今日は30度を超え暑い一日でしたが、日本の様な湿度はなく、茹だる暑さではないので、まだまだドイツの夏は甘っちょろい気がしています。
さて、今日は昨年の6月の出来事をいつものことながらマイペースに書きたいと思います。

この月の終わりはいよいよお引越しでした。
引越し業者の引越し代を職場が出してくれることになっていたのですが、その申請がなかなか大変で、この書類ではダメ、あの書類でもダメと、ああだこうだしていたら結局時間もギリギリ切羽詰まってしまいました。幸い、ハンブルク在住の日本人の方々の助けもお借りし、なんとか引越し業者も決まり、箱詰めは全て自分で。一人分の荷物だからそこまで大変ではないと思っていましたが、2年半の年月で所有物を知らず知らずのうちに溜め込んでいたことにこの時初めて気がつくことになります。
引越し用ダンボールはアルトナ(住んでいた街)にあったIKEAで何度か往復して買い、部屋の掃除も併せて毎日黙々と準備をしていました。
全部でなんとダンボール28個!!何がそんなに増えたかな〜、と全くの疑問であります。いつか断捨離をしなくては、、、と心の底で叫びながらも、ライプツィヒでも必要だと思うものは捨てずにダンボールに全て詰め込みました。

そんな引越し準備期間中に、同居人のドイツ人のマルティーナとお隣に住んでいるご夫婦がお別れ会を開いてくれました。いつも私の事を応援してくださり、4月の修了演奏会にも応援に駆けつけてくださったりと、とても良い方々でした。お別れ会ではお礼にアメイジンググレイスをアカペラで日本語と英語とドイツ語で歌いました。歌い終わって改めてお礼をいう時、本当にこの方々との別れが寂しくて、思わず泣いてしまったのはここだけの話です。


なぜイギリス国旗のナプキンがあるかと言うと、この日の前日にイギリスがEUから抜けたのでした。
たまたま食器棚にあったのをマルティーナが出してきました。
イギリスのEU離脱のニュースは衝撃的でしたが、見事にタイムリーなナプキンでした。笑

マルティーナが行きつけのカフェの3種類のケーキを買ってきてくれました。
(ラバーバ、2種類のリンゴのケーキ。)どれも美味しかったです!
左が同居人マルティーナ(小児科の英語とフランス語の先生)、
右がお隣に住んでいたご夫婦(良く近所の家の猫(フェリックス)を自分たちのお家に泊まらせてあげていました。)



引越し業者の運搬可能日が新しいお部屋の入居日に間に合わなかったため、同居人と知り合いの方に運搬日当日の確認を頼まなくてはいけなかったので、本当に協力してくださる方がいて感謝でした。ということで、荷物が運搬される一足先に私はICEでライプツィヒへ。当日、アルトナ駅まで同じ学校で学んだ友人たちが見送りに来てくれ、涙涙のお別れ。素敵なメッセージノートを頂きました。大好きな声楽の先生、お世話になった先生方、友人たちが沢山書き込んでくれて、心が熱くなりました。

頂いたメッセージノート

ライプツィヒへのICEの中で読ませて頂きました





ライプツィヒまではスムーズにたどり着くことができ、無事に新しい家の鍵を受けとり、その翌日に住民登録、晴れてライプツィヒの住人になることができました。役所の人がとても感じが良く(ドイツでは珍しい!)、新しい街で不安もありながらも、気持ち良く新生活をスタートすることができたのでした。引越し業者の荷物もその後無事に届き、色々な方に助けて頂き、改めて感謝の多い日々でした。


住民登録したらライプツィヒ住民ビギナーセットがもらえました。
ハンブルクよりもご丁寧な街です。

ライプツィヒ住人ビギナーズセットの中身。
といっても宣伝の品が殆どですが、クーポンもはいっていました。
入居日に大家さんがライプツィヒの地図を貸してくれました。





5月(2016年)の出来事 家探し in ライプツィヒ


ライプツィヒの家探し中に出会った子。

毎度久しぶりの更新になってしまっていますが、今回は2016年の5月(1年前!!)の出来事について思い出して書こうと思います。

4月のMDR 放送合唱団のオーディションを経て何とか合格できたものの、次の山場はライプツィヒでの家探しです。
日本では実家にのほほんと暮らし、ハンブルク内では1度引っ越しましたが同じ市内だったため、今思い返せばまだ楽な方だったのですがが(それでも当時はなかなか条件に合うところが見つからなくて20件程見学しギリギリまで見つからなく大変な思いをしましたが・・・。)、今回は北ドイツから東ドイツへ一人での引越し、話が違います。
ハンブルクからライプツィヒへはICE(ドイツの新幹線)で3時間半と離れているため、見学の予約も、数日間に一気になるべく無駄なく詰め込み、ホテル滞在をして探しました。一回の滞在で見つけたかったのですが、そう甘くはなく、結局2回ライプツィヒに赴き、あちこち探し回りました。
まだ全くライプツィヒの立地がわからず、街の中で迷子になり、予約の時間にたどり着けない物件があったり、遅れを伝える電話をするも電波が悪く相手の声がほとんど聞こえなく、相手にキレられもう2度と電話に出てもらえなかったり(でもこんな事ですぐキレるドイツ人とは関わらなくて幸いでしたが。)、アルコール中毒の人がフラフラしている地区(当時はどこの地区が治安が良いのか悪いのか良くわからなかったので)、犬のウ⚪︎チが道端にゴロゴロ落ちている地区(笑)、はたまたマーラーが昔住んでいてそこで交響曲1番を作曲した家の間隣の物件、世界的にも有名な動物園の近くの物件などなど、とにかく物件提供者とコンタクトが取れて見学が予約できたところは手当り次第回りました。
1度目の家探し滞在で決まらなかった時は凹み、2度目の滞在の時には見つからなかったらどうしようという焦りの気持ちが大きく、右も左もわからない、誰も知り合いのいない新しい土地で道端で泣きそうになりながら(泣きませんでしたが・・・もしや、、、心臓に毛でも生えてきたのでしょうか!笑)、神様に必死に祈りながらとにかく足が棒になるまで探し回りました。その割にはあちらこちらで見つける興味のある風景を写メに収める元気はあったようです。が、かなり疲労していたのと頭がテンパっていたのもあって道中、手を滑らせて石畳の路上に携帯を落とし、見事に画面がホラー映画のような有様に。泣きっ面に蜂状態でした。苦笑

家探し中の物件のひとつが、マーラーが住んでいた家の間隣でした。
因みにマーラーはここで交響曲1番を作曲したそうです。


そして、最後の最後で幸いにも職場まで路面電車で5駅目(乗車時間8分)ドア・トゥー・ドアで15分で行ける、ライプツィヒで一番治安が良いとされていて道端がかなり綺麗な地区、そして家具付きの物件に決めました。(ちなみにバッハでお馴染みトーマス教会まで徒歩23分。)
個人的に貸し出している物件でしたが、大家さんの奥様は日本に旅行に来た事もあって日本の文化に興味があるドイツ人で、彼女自身バイオリンも習っていて音楽に理解のある方、そして可愛い3人のお子さんがいて、8歳の女の子は歌を習っている、という事だったので、安心して契約することができました。
ただ、バスタブがなくシャワールームのみ。という事は日本人の私にとってはとても痛い、、、!!のですが、また近い将来引越しをすることになると思うので、その時は必ずバスタブのある物件にしたいと思います。
まずは物件が見つかって神様に感謝でした。

来月はいよいよお引越し、北から東へ大移動です。



家探し期間中、ハンブルクの道端で30センチ近くまで飛んできてくれたRotkehlchen。
近づいても全く逃げようとせず、そのまま数分間チラチラ私の事を見つめてくれ、私のささくれた心を癒してくれたのでした。(以前紹介しましたが、とても綺麗にさえずる鳥なので、参考までに以下に動画もアップします。Youtubeより。)


4月(2016年)の出来事 その② 〜MDR放送合唱団のオーディション〜

久しぶりのブログです。
忙しさに身を任せっぱなして、気がつけばもう約1年も前の出来事になってしまいます・・・!
次はいつ書けるのかしら、、、といったところですが、まずは4月後半編です。
これは私の人生を大きく変える一つの分岐点になった出来事です。

4月の修了試験が終わった次の週、バッハの街ライプツィヒまでMDR Rundfunkchor(中央ドイツ放送合唱団)の契約団員の為のオーディションを受けに行きました。
5月頭には完全帰国する予定でいましたが、たまたまインターネットでこのオーディションの事を知り、せっかくなのでドイツの最後の記念にと、音源と履歴書を送ったところ、幸い書類と音源審査が通り、オーディションの招待状が手元に届いていました。
ハンブルクからICE(ドイツの新幹線)で片道約3時間半。ライプツィヒは数年前に1週間だけ夏季のマスタークラスを受講した事がありましたが、当時はまさかオーディションを受けにまたこの街にやってくるとは思ってもいませんでした。でも何より、交通費を出してもらえるという事もあって(動機が不純・・・?)、時期的にも初春だったので、車窓からは黄色のお花畑が広がっていて、緊張と小旅ができる嬉しさが入り混じった気持ちでいました。


ライプツィヒ中央駅に到着して向かった先は、駅を出ると離れていてもすぐ目に飛び込んでくる東京のビル並みに聳え立つMDR放送局のビル。久しぶりのこれだけの高さのビルに、私の気持ちはもう怯む(ひるむ)ばかりでした。集合は115分。書類と音源選考を通過した歌手たちが計7人ドイツ、スペイン、韓国、インドと様々な国から集まっていました。受付を済ませ、発声するお部屋に案内して頂き、心の底では、「あぁ、もうまた審査される・・・」と思いながらも、せっかくライプツィヒに来れたのだからとにかく思い切って歌ってこようと心に決め、オーディションに臨みました。
オーディションは課題の独唱曲と合唱曲、自由曲と計10曲ほど用意しなければならなかったのですが、まず1次審査で課題の中から自選の曲をそれぞれ歌いました。オーディションのChorsaal(合唱団の練習所) に足を踏み入れるとそこにはざっと40人程の人たちが・・・。常任指揮者とMDR放送合唱団の団員の方々でした。まぁ皆お揃いで・・・全員が審査員です・・・。心の底で「こんなに大勢いるの?!聞いてない。。。」と正直、お辞儀してそのままくるっと背を向けて帰りたい心境でしたが、まずは名前と歌う曲名を言い、演奏しました。1曲目を歌い終えて最初に感じたのは、合唱団専属のピアニストが伴奏してくださっていたのですが、素晴らしいピアニストだということ。歌い手の呼吸や音楽の流れを止めずにかつ伸び伸び歌わせてくれるピアニストでした。
膝が震える程緊張していたので1曲目を歌い終えると、もうホールから出たい、という気持ちで一杯だったのですが、次はこれ歌ってください、と指定された合唱曲の中から1曲を歌うことに。シェーンベルクの作品でしたが、私の心はもうここにあらずという感じで歌っていたと思います。歌唱後、指揮者から○小説目と○小説目はこう歌ってみてください、と音楽的な指示があり、再度歌い、それが終わると、恐れていた新曲視唱の楽譜を手渡されました。しかし歌っていく中でホールの雰囲気にも慣れてきて、思いの外落ちついて歌い始められました。このまま無事故で新曲視唱を終われるかな、と思った矢先、なんと最後の着地の音が1音ずれて着地。オチがそれ?と言わんばかりの着地だったため、団員さんにどっと笑われ、ピアニストから「あ〜!最後のギリギリまでパーフェクトだったのに!」と・・・。
やっぱり無事故では終わらないのが新曲視唱だと改めて痛感。再度歌い直し、無事合っている音に着地できました。新曲視唱を終えると、一旦試験会場から出されました。ビルの受付前が待機場だったのですが、どの歌手も緊張の様子でしたが、1次の出来を皆でああでもない、こうでもない、と話していました。皆、よく喋るな〜と感心。かなり長いこと待たされ、指揮者と合唱団員の一人が部屋から出てきて一人一人名前を呼び、1次の結果をその場で伝えられました。幸い、私は2次審査に進む事ができましたが、指揮者から新たな注文、「君はソロの曲はソリストらしくしっかり歌っていたけど、合唱曲になると途端に声を抜いて歌っていたから、合唱曲もソロ曲と同様に次は歌ってみてね。」私は、内心、「あ、ソロのように歌って良いんですか!?」と驚きましたが、逆に少しホッとしました。というのも、合唱で歌う際、どうしても周りに合わせなくては、とか声が飛び出してはいけない、とか子音を揃えなくては、とか音程を・・・とか考えすぎるとどんどん蚊が鳴く様な声になってしまい、おまけに発声にとても悩むということを今まで何度か経験してきたので、ソロのように歌って良いなら是非!という感じでした。
2次審査に残ったのは結局私ともう1人のインド人のソプラノ。実は彼女、1年前のグラーツでのコンクールに参加していた時に同じく参加していて、当時は話したことはありませんでしたが、音楽の世界はヨーロッパでも狭いものなのね、とつくづく感じました。
とても感じの良い歌手だったので、次は何歌う?とかどうだった?とか話しながら待機していました。
2次審査は私の場合、自分で選曲して良いと言われたので、ヘンデル「アルチーナ」のモルガーナのアリアを選曲しました。試験場に入ってから演奏前に「もう一度自分の名前を言った方が良いですか?」と聞くと、団員が大合唱で「Nein〜!!!(いいえ〜!)」。そんなに揃って大きく否定しなくても・・・。
ヘンデルは前奏、間奏、後奏が長く、オーディションで演奏するには長過ぎだったので、ピアニストに「長いからここからここをカットして、ここに飛んでもらえますか?」と伺うと、「なんで?僕全部弾くよ〜!」とノリノリだったので、結局全部弾いてもらう事に。しかしノリノリで弾いて下さったお陰でとても歌いやすく、緊張の真っ只中ではありましたが伸び伸び歌わせてもらいました。ピアニストが合いの手をどのように差し出してくださるによって、私の場合大きな影響を受けます。良いピアニストの力は大きいです。
無事になんとか歌い終わり、また新曲視唱?とキョロキョロと挙動不審になっていましたが、今度は指揮者がピアノのところにトコトコとやってきて、彼がピアノで弾く色々な音階やフレーズを審査するものでした。次から次に違う音形を歌わなくてはいけませんでしたが、緊張でハイテンションになっていたお陰で、ハイF(モーツァルト作曲"魔笛"の夜の女王のアリアに出てくる最高音のファ)を通り越して、ハイGis(高音ソのシャープ)までヒョイ、と声が出ました、というか出てしまった、と言ったほうが正解かもしれません。自分でもビックリ。
「これ以上高い音は必要ないね。」と指揮者から言われ、低音も試され、「君は3オクターブ半は持ってるね。」と言われました。
それについてとっさに出てきた一言が「Schön! (良かった!)」。
もう頭が悪いというかテンパってるというか、、、。また団員さんたちにどっと笑われ・・・でも心の中では(こんな高音が出たのは久々です、・・・たまたまです・・・というか多分今日だけです・・・・。)と連呼していました。練習の時でもよっぽど調子が良い時でないと、この日のようにクリアに超高音までいけないのですが・・・今回は奇跡です。
音形の審査が終わり、また部屋から出されて待機。
これもまた長〜く待たされた後、指揮者と係りの方が出てきて、結果を口頭で告げられ、「おめでとうございます!ソプラノ団員としてあなたをお迎えします!」と合格通知を受けました。
オーディション終了時間、夜の7時半過ぎ。長丁場のオーディションでした・・・もう魂が抜けてしまうかと思いましたが、直後にハンブルクの先生に連絡すると、とても喜んでくださいました。しかし正直な所、この結果を指揮者から聞いた時は、嬉しい反面、「受かってしまった・・・どうしよう・・・ということは、5月には日本に帰れない?というかドイツで就職??親に何て言おう。」と不安もグルグルと回っていました。
その不安も全部ひっくるめて色々と考えましたが、せっかく奇跡的に頂けた貴重なチャンス、そして音楽の街ライプツィヒで経験を積めるという事もあって、ここで働く事を決めました。
こういうわけで、2016年の夏、88日付でMDR Rundfunkchorと契約させて頂き働き始めることになりました。といっても、最初の1年間はProbejahr(研修期間)として働きます。ドイツではこれが普通なのです。1年、、、長いですね。。。それでも日本人でありながらドイツの放送合唱団という音楽家にとって安定した職場で働くチャンスを頂けた事に感謝しつつ(そして後々聞かされた話ですが、今回の審査は満場一致での合格だったとの事でこれも感謝。これも大きな奇跡・・・)、他にもやりたいこと、やらなければならない事は沢山あるので、色々と熟考しながら進んでいきたいと思っています。
まずやらなければいけない事、そう、それは家探しとお引っ越し。
ハンブルクからライプツィヒへ、人生初のドイツ国内での大移動です・・・


左、MDRタワーの中に放送合唱団とオーケストラの練習所があります。
右はライプツィヒ大学。


4月の出来事 その① 〜修了コンサート 〜





4月は本当に目紛しい日々でした。
色々と書きたいことがあるので、2回に分けて書かせて頂こうと思います。
今回は"その①"、4月12日に在学していた学校の修了試験がありました。
試験は3つの異なる時代の作品を45分のプログラムを自由に組んで、公開で演奏会をするという形式でした。
今回演奏したい曲がありすぎて選曲に苦戦しましたが、結局パーセル、ヘンデル、ハイドン、シューベルト、メンデルスゾーン、M.レーガー、ツェムリンスキー、L.ボーロンジェ、ヴェルディ、バーバー、N.ローレムと、ドイツ、イタリア、フランス、アメリカと、多種多様なプログラムになってしまいましたが、どれも好きな作品ばかりを選曲しました。自然にテーマは自然の美しさそして ” がテーマになった作品が並びました。私の声質にもよるのでしょうが、どうやら私は明るさの中の音楽より月夜のような音楽ほうが好みらしいという事を、プログラムの組んでわかりました。もちろん、私の良さを出すのに外せないコロラトゥーラの明るい曲も数曲入っていますが、4月は修了試験間近に2つの別の本番もあったので、とにかくこの月は気が抜けない時期でもありましたが、それが逆に良かったのか、良い緊張感を保てたまま乗り切れたように思います。しかし、この時期に腰痛が再発。リハーサルまでは痛みと戦いながらでしたが、本番はそんな事もすっかり忘れ(といいますか、ここが痛いとかあそこが痛いとかそんな事言ってる場合ではなく、考えている余裕はありませんでした。)とにかく集中していたように思います。声楽科のZach先生、コレペティの先生方も、最後まで本当に熱心に指導してくださり、お陰様で試験の成績は日本でいうを頂く事ができました。アンコールは2曲、その中の1曲は日本歌曲、山田耕筰の「からたちの花」を歌わせて頂きました。ハンブルクでお世話になった方々も多く駆けつけてくださり、皆様の温かい“気持ち”に支えられてこれまでの留学生活が送れたのだと、今一度再認識した演奏会でもありました。心から感謝です。終演後は私よりも先生方の方がハイテンションで、「マイ、打ち上げに行こう!今打ち上がらないでいつ打ち上がるの?!」と、そのままコレペティの先生の車でハンブルクの街を少しドライブし、イタリアレストランへ。つくづく本当に愛情深い先生の元で勉強する事ができて幸せでした。

日本に居たころ、大学院時代でさえ、試験は一人1520分程度だったと記憶しているので、今回45試験 という形で演奏したのは人生初でした。勿論とても良い経験でしたが、試験はもうやりたくないと心の底から思った日でもありました。






修了試験のポスター