2月の出来事。グラーツ、ウィーンへ。

ブログの更新をまたまたご無沙汰してしまいました。

日本の気温は既に30度に手が届きそうな暑さと聞いていますが、ハンブルクはまだまだ肌寒く、薄めのダウンジャケットで丁度良い気候です。
それでも、日はかなり長くなりました。明け方4時過ぎには空が明るくなり始め、日没は夜の9時半過ぎ。その後もすぐには真っ暗にはならずに深い青色で、ハンブルクはドイツの北部で、白夜がある北欧に近いのだという事を改めて感じています。
深い青色の空を眺めると、宇宙の奥深さ、奥行きを感じると言いましょうか、大きな存在の呼吸が感じられる気がして、眺める度に私も大きく深呼吸します。風の香りもとても新鮮です。

さてもう数ヶ月前の事になってしまいましたが、2月はオーストリアの第二の都市、グラーツにコンクールを受けに行ってきました。このコンクールは、声楽の先生がグラーツ出身という事もあり、勧めて下さったのがきっかけでした。
グラーツはシューベルトにゆかりのある土地、そしてグラーツの音楽大学が現代曲に力を入れているという事もあって(聞いた話による)、シューベルト作品と現代作品が対象のコンクールで、声楽部門というのではなく、ピアノと声楽の2人組で参加するデュオ部門コンクールでした。他にもトリオ、弦楽四重奏の部門もありました。
今まで声楽部門のコンクールしか受けた事がなかった私にとって、デュオ部門は初めての試みで(日本にはデュオのコンクールはありません)、ピアニストとタッグを組んで1時間程度のプログラム(大体歌曲30曲弱)を作り上げて行く過程は正直な所、簡単ではありませんでした。そしてピアニストとタッグを組んだのもコンクールの3ヶ月前と十分とは言えない時間の中での経験でした。
人それぞれ、音楽性というのは違いますし、解釈も人それぞれ。時代、作曲家のスタイル中で、これが正解、というものが未知数な中での音楽作りは楽しさ半分、苦しさ半分、といった所でしょうか。レッスン中に同じ箇所で声楽の先生とコレペティ,ピアノの先生から頂く異なるアドバイスがあったりと、迷わないではいられない状況も沢山ありましたが,新しく出会えて学ぶ作品が殆どだったので、とても勉強になりました。

グラーツ入りする直前に2日間だけ東京でどうしても外せない予定があったので、ハンブルク→ウィーン乗り換え→東京2泊→ウィーン乗り換え→グラーツと、今までで一番ありえない移動をし、なんとグラーツに到着したのはコンクール開始の次の日。ピアニストに先に現地入りしてもらい、出演順の抽選をしてもらい、と沢山の迷惑をかけながら、運良く演奏日が到着日とは被らなく、コンディションは万全ではありませんでしたがなんとか演奏することができました。ただ飛行機での長時間の移動で身体はバリバリ、喉はカラカラ、全てが本当にヒヤヒヤものでした。

コンクールには世界中から出場者が集まっていて、日本人の組も何組か出場していました。芸大時代のピアノ科の同級生にも久しぶりに再会しました。

コンクール会場。グラーツ音大内にありました。
2台のグランドピアノが用意されてあり、出場者がそれぞれ自分たちの音色に合う方を選択します。一つはシュタインウェイ(キラキラした軽やかな音色)、そしてイタリアのファツィオーリ(温かく柔らかい音色)。
出場者が変わる度に、係のお兄さんがいちいちゴロゴロ〜とピアノ移動させていました。

舞台から見た景色。
そしてコンクール期間中、なんと現在の師匠がハンブルクから駆けつけて下さいました。コンクールに先生が同伴して下さる経験もこの歳になって私にとって初体験でした。前日にびっしりと書かれてある励ましの手紙とチョコレート、本番直前は発声まで見て下さり、先生の愛を沢山感じたコンクールでもありました。

先生から頂いた手紙とチョコレート。

Liebe Mai(親愛なるMai)から始まる先生のお手紙。
(ただし、あまりにもびっしり書かれていて、終盤はハガキをぐるりと囲む様に書かれてありました。
そして見てお分かりかと思いますが、なかなか読みづらい字で(失礼)読解にかなりの時間を要したのは言うまでもありません。)

コンクール直前まで東京で声を温める時間、ピアニストと合わせられる時間が取れなかったのもあり、結果は残念ながら敗退。どんな状況でもすぐに歌える身体ではない今の自分のレベルの低さと先生のご期待に応えられなかった申し訳なさ、悔しさと、出場者のレベルの高さ、現代曲のレパートリーの広さを実感しました。そしてもう一つ残念だったのは、日本人の組が一組も本選に残れなかった事。これは西洋音楽を日本人が演奏する事において、大きな課題を突き付けられた瞬間でもありました。

ただ、このコンクールに向けてやってきた事は、確実に自分の力になっているなと感じられる面も多く発見できました。しかしこれを発見できたのはこのコンクールの1ヶ月後くらい後でしたが・・・。
コンクール終了後には審査員で、私にとって憧れの歌手でもあったクリスティーナ・オルツェ氏に直接講評を頂き、今後の課題、励ましの言葉も頂きました。そして何より、他の出場者の演奏を聴けた事は、大きな刺激、勉強になりました。現代曲ってすさまじい・・・!!!という感想と共に。
シューベルトの歌曲はやはりドイツ語圏の歌手の発音の美しさに魅せられ、現代曲に関しては、フランス人の演奏が特に素晴らしく釘付けにされました。

コンクールは水ものとは良く言われますが、結果も勿論大切かもしれませんが、それ以上にそこまでの過程とその経験で得たものに価値があると実感できたコンクール、大変良い経験となりました。

そしてグラーツの街の事を少しばかり。
とにかく人々が温かく、街並も可愛らしくて、大好きな都市の一つになりました!!
師匠の素晴らしい人柄はこのグラーツ出身だからなのか〜、成る程!と感じました。
ある時はパン屋さんでパンを買おうと思ったらパンをタダでくれ、カフェに入れば甘い菓子パンをくれ、よっぽど私がお腹を空かせている子供に見えたのでしょうか。
これもまた人生初の経験。親切でありがたい街でした。

グラーツの時計台。まだ雪が残っていたので、階段は閉鎖されていましたが、エレベーターで上まで登れました。ただし有料。後で知ったのですが、裏側には歩いて登れる道があったとか。(その日の夜に同級生から知らされる。)遅すぎました・・・。

グラーツの時計台。長針が “時間”、短針が “分” を刻む珍しい時計でした。
頂上に登るとかなりの雪が残っていたので思わず手のひらサイズの雪だるまを作ってしまいました。
私の精神年齢はどうぞ聞かないで下さい。

グラーツの街並と。後ろに先ほどの時計台が見えます。


グラーツの市庁舎。
中も少し入ってみましたが、役所のお兄さんの対応までも感じが良かったです。

グラーツのオペラハウス。
ちょうどプッチーニのトスカが上演されていたので、ついでと言っては何ですが、せっかくなので聴いてきました。

トスカは昔、東京少年少女合唱隊に所属していた頃、子供の合唱でサントリーホールで歌った事があり、とても懐かしかったです。
ただし、途中の演出の銃声はやはり昔と変わらず心臓が止まりそうになりました。もうすぐ来る・・・と分かってはいるものの。。。
前に座っていたおじいさん、おばあさん達も皆椅子から一瞬一斉に飛び上がっていました。
オペラを観るのも命がけです。

休憩中に1階の前方から。

コンクールからの帰りは丁度週末だったので、乗り換えついでにウィーンで数日時間を取り、今回のコンクールでのメインの作曲家、シューベルトの生家にも足を運び、シューベルトがここで曲を書いていたのだ、という溢れる感動と共にこのコンクールに参加できて良かった、とここでも改めて実感。

シューベルトの生家の前で、コンクールの楽譜を取り出して。

市内の重要文化財には左上に見えるオーストリアの国旗がかかっていて、一目でこの建物が重要文化財と分かる様になっていました。

シューベルト。この絵が一番有名でしょうか?
シューベルトが使っていた眼鏡。
このレンズを通して沢山の楽譜を書き上げていたのだと思うと、しばしこの眼鏡から目が離せませんでした。
シューベルトの自筆の楽譜。
綺麗な書き方でした。
Gretchen am Sponnrade(糸を紡ぐグレートヒェン)の楽譜です。
シューベルトが使っていたピアノ。小さなサイズでした。

そして更に、モーツァルトの住んでいた家も訪れ、ここでもまた感動。
大好きなモーツァルトにもまた少し近づけた様な気がしました。

モーツァルトがウィーン時代に住んでいた家。ここで“魔笛” 等が作曲されたそうです。魔笛はモーツァルトが作曲した最後のオペラです。
モーツァルトは1791年12月5日、35歳という若さでウィーンで亡くなっています。
そして先ほど書き忘れましたが、シューベルトも1797年に生まれ1828年にウィーンで亡くなっています。31歳9ヶ月という若さでした。この短い人生の間におよそ600曲もの歌曲を世に送り出しました。モーツァルトもですが、信じられない創作力です。今回時間がなく残念ながらシューベルトが晩年に住んでいた家にはいけませんでしたがいつか行きたいです。
音楽の教科書等でよく見るウィーンのモーツァルト像。
ウィーンに飛んだ3日間は快晴。それまではウィーンではずっと悪天候が続いていたらしく、珍しいお天気だったそうです。ラッキーでした。




大好きな作曲家の軌跡に触れる事が出来た興奮でテンションは高いまま、その他美術館やシュテファン寺院等、色々と街中も観て歩きました。


ウィーンの街並。
寒かったので、馬達は手袋ならぬ
耳袋(耳当て?)をしていました。
シュテファン寺院の内部。
シュテファン寺院の外観。
シュテファン寺院の柱の一部。
一本一本柄が異なり、素敵でした。
きっと柄にも一つ一つ意味があるのだろうなと思います。
ウィーンは初めて街に出て色々周りましたが、伝統と音楽溢れる素敵な街でした。ただし、ウィーンは観光する所が盛りだくさんで、3日間では周りきれませんでした。いつかリベンジできる日は来るのでしょうか・・・。
ウィーンでも芸大時代の後輩に会う事ができ、頑張っている姿に刺激をもらい、ハンブルクへの帰路についたのでした。
ハンブルクに着いた時感じた、地元に帰ってきた時の様な安堵感、お味噌汁を飲む時の安心感に少し似ていました。

次回は3月の出来事を更新したいと思います。

以下はおまけの写真たちです。



J.シュトラウス像。

美術史博物館。エントランスから荘厳でした。



正面のエントランスを登った所の壁面上部にはクリムトの絵がありました。右がエジプト、左が古代ギリシャがテーマだそうです。

美術史博物館の内部。
一日いても飽きないと思う程(というよりもじっくり鑑賞するには数日必要かもしれません。)、
どの部屋も沢山の絵画がありました。真ん中にはフカフカなソファーが置いてあり、ここに座って絵画を見ながらその絵に思いを馳せるのも休日の素敵な過ごし方と思いました。いつか実践してみたいものです。


これは絵の中の一部ですが、この飲んだくれているこの人の顔を見つけた観光客のおじさん達が、大笑いしていました。確かに、すごい飲みっぷり。しかし誰が作者かは不明。

これもまた絵の一部ですが、ブリューゲル『子供の遊びKinderspiel』(1560年の作品)から、
可愛い女の子を発見。かなり気に入りました。
絵全体はインターネットで検索するとヒットします。
色々な遊んでいる子供達の様子は楽しい気持ちにさせてくれました。

ブリューゲル『バベルの塔』(1563年の作品)。これはかなり有名ですね。
ただしブリューゲルといってもお父さんの方の作品です。
このバベルの塔から様々な言語に分かれてしまったこの大事件、語学が苦手な私(声楽科にとっては致命的・・・)は心の中で「なんでこんなに沢山に別れてしまったの〜!!」と叫んだのはここだけの話です。
しかし、神の様になりたくて、神に近づく為に天にも届く程に高く造り上げたこのバベルの塔を見ると、人間の罪深さを垣間見る事ができます。

ブリューゲル『農民の婚礼』(1568年の作品)
美味しそうなスープが運ばれています。

ブリューゲル『雪中の狩人』(1565年の作品)

これは誰の作品だったでしょうか・・・書き留めるのを忘れてしまいました・・・残念。
ただ、とても印象に残っている絵です。天使が画家に指示していますね。
インスピレーションはこんな感じで降って来るのか、と納得してしまいました。

フェルメールの作品。『絵画芸術』(Die Malkunst)(1660年頃の作品)
この絵にもとても魅せられました。
因にこの絵はヒトラーが売却した事でも有名だそうです。


これもフェルメールの作品、これも題名を覚え書きするのを忘れてしまいましたが、この女の子の可愛らしい表情に惹かれました。

ラファエロの作品。『草原の聖母』(1505もしくは1506年の作品)
これもかなり有名な作品です。聖母の纏っている衣の深い青色が印象的でした。

レンブラントの自画像。レンブラントは60点以上の自画像を遺しているそうです。
そのうち3点がウィーンの美術史博物館にありました。
誰かに似ているような・・・似ていないような。そういう問題ではありませんが。


音楽の国、オーストリアの国旗、
青空に誇らしげにはためいていました。

1880年創業の歴史的カフェで朝食を食べました。当時の芸術家のたまり場たったそうで、オペレッタ作曲家で有名なのレハールやクリムトも常連だったそうです。ずっしりと深みのある雰囲気抜群のカフェでした。